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エルジェーベト(Erzsébet, 1207年7月7日 - 1231年11月17日)は、ハンガリー王エンドレ2世とメラーノ公女ゲルトルードの娘。テューリンゲン方伯ルートヴィヒ4世の妻。ドイツ名のエリーザベト(Elisabeth)でエリーザベト・フォン・ウンガルン(Elisabeth von Ungarn)、あるいはエリーザベト・フォン・テューリンゲン(Elisabeth von Thüringen)とも呼ばれる。また、ローマ教皇グレゴリウス9世により列聖され、聖エルジェーベト、聖エリーザベト、聖エリザベートなどとして知られ、11月17日(正式には11月19日)が祝日。カトリック教会・聖公会・ルーテル教会で聖人。日本のカトリック教会では聖エリザベト(ハンガリー)修道女としても知られる。 ==生涯== === 王女から修道女に === ハンガリー王女としてシャーロシュパタク城に誕生した。兄弟は6人おり、ハンガリー王ベーラ4世、ブルガリア皇帝イヴァン・アセン2世の妃となったマリア、列聖されたポルトガル王ディニス1世妃イザベルの祖母にあたるアラゴン王ハイメ1世妃ヨランダなどがいる。また母方の伯母であるシロンスク公ヘンリク1世妃ヤドヴィガ(ヘートヴィヒ)、兄ベーラ4世の娘マルギトもそれぞれ1267年と1943年に列聖、父方の叔母でボヘミア王オタカル1世妃コンスタンツィエが産んだ従妹アネシュカも1989年に列聖されている。 4歳の時にテューリンゲン方伯でルートヴィング家のルートヴィヒと婚約し、テューリンゲンに連れて来られた。当初の婚約者に目されていたヘルマンが夭折したため、その弟のルートヴィヒが婚約者となったのである。ルードヴィング家とヴェッティン家との対立といった神聖ローマ帝国内部の政情をにらんでのもので、王女であり東ローマ帝国皇帝とも親戚に当たるエルジェーベトは貴重な政略結婚の具といえた。 アイゼナハにおいて1221年に14歳でルートヴィヒ4世と結婚。仲睦まじく幸福な結婚生活を送り、三児をもうけた。1223年頃に最初のフランシスコ会修道士がテューリンゲンを訪れ、エリーザベトはアッシジのフランチェスコの教えに触れて信仰心を篤くした。エリーザベトが宮廷を抜け出して、当時忌み嫌われたレプラ患者の救済に従事して非難されたとき、ルートヴィヒ4世は妻を庇った。その夫婦愛はヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハによりミンネが作られるほどであった。1226年には高名なフランシスコ会修道士で異端審問官のコンラート・フォン・マールブルクを宮廷に迎えている。 1227年にルートヴィヒ4世が第6回十字軍に従軍中に疫病のためオトラントで死去し、若くして未亡人となる。長男のヘルマンはまだ5歳だったため、ルートヴィヒ4世の弟ハインリヒ・ラスペがテューリンゲンの摂政となった。おそらくは未亡人の化粧料の取り扱いをめぐってハインリヒあるいは姑に疎まれ、ヴァルトブルク城を追われた。しばらく滞在したアイゼナハでは、豚小屋に住む境遇にまで身をやつしたと伝えられている。それを伝え聞いた伯母がエリーザベトと子供たちを迎えに行き、自らの伯父の居城であるバンベルク城に送った。この伯父はエリーザベトに再婚を薦めたが(その候補には当時独身だった神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世もいたという)、拒否して貞節を守った。 1228年に夫の遺骨を修道院に埋葬した後、師父であるコンラートのいるマールブルクに赴く。聖フランシスコ会に入会してテューリンゲンから化粧料の代金として受け取った2000マルクを寄進し、マールブルクに病院を建設して貧民・病人のために尽くした。コンラートによる厳しい監督、監視の下、エリザベート自身も貧民のような生活をしたという。娘ゲルトルートは2歳のときにエリーザベトから引き離されて修道院に送られた。1231年、24歳の若さで死去。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「エルジェーベト (ハンガリー王女)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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